この数年間、数多くの書籍を読み、多少は学んできたつもりだが、知識が増えることが必ずしも「しあわせ」に繋がらないのではないかと感じ始めている。つまり、知れば知るほど、「これはこういうものだ」「こうじゃなきゃいけない」という概念に囚われてしまう。
般若心経は、こうした捏造された「私」から解放してくれる。
私自身、宗教心が強い人間ではないが、何気なく手に取った本書が、今年、一番影響を与えた書籍かもしれない。
■はじめに
デカルトの「近代的な自我」の提唱にあるように、人は生後成長と共に、自我の確立に向かうもので、社会は自立した個が連携して構成されるものであると、我々は信じこんできた。
しかしながら、本書では、こうした「個」の錯覚が元になった自己中心的な思考が「迷い」や「苦しみ」の根源であると述べている。
ソクラテスは、自己とは身体よりもむしろ霊魂であり、この霊魂をよい状態に保つことが「しあわせ」であると考えた。しかしながら、ソクラテスは、「しあわせ」に至る手法を確立することは出来なかった。
それに対し、世尊(ゴータマ・シッダールタ、後の「ブッタ」)は、理知的な分析の限界を認識し、瞑想という体験的な「知」の様式である「般若」を用いて、「しあわせ」の実感に近づいたという。
■「色、受、想、行、識」という五蘊は、すべて「空」である
五蘊とは、私たちの身心を構成する集まりで、具体的には、色:人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった、受:感受作用、想:表象作用、行:意志作用、識:認識作用 をいう。
我々は、五蘊を、自分自身だと錯覚しやすいが、世尊は、五蘊は皆実体がなく、関係性のなかで仮に現れた現象、すなわち「空」であると述べている。例えば、人間と、犬、蜂や鳩が同じ花瓶を見たとしても、それぞれが持つ感覚器や脳が違う以上、まったく違った見え方をする。
また、「不生不滅」「不垢不浄」「不増不減」、即ち、あらゆる現象は、本当は生まれもしなければ、滅することもない。汚れることもないし、浄らかになることもない、増えるとか減ったということも、錯覚でしかないという。
例えば、水が「減った」ときも、誰かがコップの水を飲んだなら、その人の胃を通り、腸で吸収されただけ。また、蒸発して「減った」のなら、水蒸気に形を変えたにすぎない。地球規模で見れば、何も減っていない。
以上のように、仏教においては、あらゆる現象は単独で自立した主体をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、かつ秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向へ変化しつつあるという見方をするのである。
■共時性
共時性、シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは、事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された概念である。共時性(きょうじせい)とも言う。
何か二つの事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような二つの事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見做す。
ちょっと難しいですが、「空」を実感するとき、「同時」なる関係性が感じられるだけでなく、「異時」さえ同じ地平に包み込まれてしまう。
つまり、誰でもあらゆる命が繋がっていると感じられたり、これまでの全ての時間が「今」に活きているというような、そんな実感をもったとき、人は人生全体に充実感をもったりするものである。
■名前が助ける知、曇らせる知
人は「名づけ」によってものごとを確定的に受けとめてしまう。
例えば、「花」という言葉は、そう呼ばれた途端に、「花」以外のものとの関係性が絶たれてしまう。また「花」は散りうるものなのに、言葉で示されると不変に存在しうるもののように感じられる。
また、お腹が「しくしく」痛むのは、単なる感覚だが、これが「病」というレッテルを貼られると、本来備わっている自然治癒力が著しく低下し、症状が悪化してしまう。
このように、あらゆるものに名前がつけられ、概念化し、思考が生まれる。名づけられた「モノたち」はやがて互いに対立する存在になりうる。こうして「全体性」が分断され、「空」から遠ざかってしまう。
言葉というものが、どのような状況で誰に向けられたものであるかを抜きに一般化されて伝えられるべきではないのである。
言語学では、言葉の発生について、以下の2種類の分析がある
1.コミュニケーションのために生まれた
2.すでに生まれてしまった概念整理のために生まれた
例えば、「過去、現在、未来」「右、左」といった複雑な概念も、言葉によってスムーズにコミュニケーションできる場合もある。
しかし、例えば、犬同士のコミュニケーションのように、言葉を必要としない場合も多いし、逆に、言葉によって誤解が生じる場合も多い。
■波動が、「いのち」に直接働きかける
仏教では、「般若波羅蜜多」「なんまいだぶつ」「なんみょうほうれんげきょう」などの意味を超えた音の響き、呪文が、大脳皮質を飛び越えて直接「いのち」に働きかける。こうした呪文を唱えつづけることで、空性なる「いのち」の真ん中にどーんと座っている自分を発見し、全体性の中にとけ込んでいくのを感じることができる。
■感想
私自身、大学に入った頃までに、メディアや両親、周囲の人たちによって価値観が作られ、「こうしなきゃいけない」「こうあるべきだ」という様々な固定観念に縛られ、捏造された「自分」によって、勝手に苦しみを感じていたように思う。
修行のつもりで、日本を飛び出し、東南アジア、南アジア、中東などの発展途上国を旅するうちに、こうした偏狭的な価値観を変えることができた。物質的な豊かさよりも精神的な豊かさの方が大事だと思うようになった。
本書は、自分が体験を通じて感じていたこと、つまり「すべては空」「共時性」などを、量子論などを用いてわかりやすく説明しており、大変興味深かった。
デカルトの「近代的な自我」の提唱にあるように、人は生後成長と共に、自我の確立に向かうもので、社会は自立した個が連携して構成されるものであると、我々は信じこんできた。
しかしながら、本書では、こうした「個」の錯覚が元になった自己中心的な思考が「迷い」や「苦しみ」の根源であると述べている。
ソクラテスは、自己とは身体よりもむしろ霊魂であり、この霊魂をよい状態に保つことが「しあわせ」であると考えた。しかしながら、ソクラテスは、「しあわせ」に至る手法を確立することは出来なかった。
それに対し、世尊(ゴータマ・シッダールタ、後の「ブッタ」)は、理知的な分析の限界を認識し、瞑想という体験的な「知」の様式である「般若」を用いて、「しあわせ」の実感に近づいたという。
■「色、受、想、行、識」という五蘊は、すべて「空」である
五蘊とは、私たちの身心を構成する集まりで、具体的には、色:人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった、受:感受作用、想:表象作用、行:意志作用、識:認識作用 をいう。
我々は、五蘊を、自分自身だと錯覚しやすいが、世尊は、五蘊は皆実体がなく、関係性のなかで仮に現れた現象、すなわち「空」であると述べている。例えば、人間と、犬、蜂や鳩が同じ花瓶を見たとしても、それぞれが持つ感覚器や脳が違う以上、まったく違った見え方をする。
また、「不生不滅」「不垢不浄」「不増不減」、即ち、あらゆる現象は、本当は生まれもしなければ、滅することもない。汚れることもないし、浄らかになることもない、増えるとか減ったということも、錯覚でしかないという。
例えば、水が「減った」ときも、誰かがコップの水を飲んだなら、その人の胃を通り、腸で吸収されただけ。また、蒸発して「減った」のなら、水蒸気に形を変えたにすぎない。地球規模で見れば、何も減っていない。
以上のように、仏教においては、あらゆる現象は単独で自立した主体をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、かつ秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向へ変化しつつあるという見方をするのである。
■共時性
共時性、シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは、事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された概念である。共時性(きょうじせい)とも言う。
何か二つの事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような二つの事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見做す。
ちょっと難しいですが、「空」を実感するとき、「同時」なる関係性が感じられるだけでなく、「異時」さえ同じ地平に包み込まれてしまう。
つまり、誰でもあらゆる命が繋がっていると感じられたり、これまでの全ての時間が「今」に活きているというような、そんな実感をもったとき、人は人生全体に充実感をもったりするものである。
■名前が助ける知、曇らせる知
人は「名づけ」によってものごとを確定的に受けとめてしまう。
例えば、「花」という言葉は、そう呼ばれた途端に、「花」以外のものとの関係性が絶たれてしまう。また「花」は散りうるものなのに、言葉で示されると不変に存在しうるもののように感じられる。
また、お腹が「しくしく」痛むのは、単なる感覚だが、これが「病」というレッテルを貼られると、本来備わっている自然治癒力が著しく低下し、症状が悪化してしまう。
このように、あらゆるものに名前がつけられ、概念化し、思考が生まれる。名づけられた「モノたち」はやがて互いに対立する存在になりうる。こうして「全体性」が分断され、「空」から遠ざかってしまう。
言葉というものが、どのような状況で誰に向けられたものであるかを抜きに一般化されて伝えられるべきではないのである。
言語学では、言葉の発生について、以下の2種類の分析がある
1.コミュニケーションのために生まれた
2.すでに生まれてしまった概念整理のために生まれた
例えば、「過去、現在、未来」「右、左」といった複雑な概念も、言葉によってスムーズにコミュニケーションできる場合もある。
しかし、例えば、犬同士のコミュニケーションのように、言葉を必要としない場合も多いし、逆に、言葉によって誤解が生じる場合も多い。
■波動が、「いのち」に直接働きかける
仏教では、「般若波羅蜜多」「なんまいだぶつ」「なんみょうほうれんげきょう」などの意味を超えた音の響き、呪文が、大脳皮質を飛び越えて直接「いのち」に働きかける。こうした呪文を唱えつづけることで、空性なる「いのち」の真ん中にどーんと座っている自分を発見し、全体性の中にとけ込んでいくのを感じることができる。
■感想
私自身、大学に入った頃までに、メディアや両親、周囲の人たちによって価値観が作られ、「こうしなきゃいけない」「こうあるべきだ」という様々な固定観念に縛られ、捏造された「自分」によって、勝手に苦しみを感じていたように思う。
修行のつもりで、日本を飛び出し、東南アジア、南アジア、中東などの発展途上国を旅するうちに、こうした偏狭的な価値観を変えることができた。物質的な豊かさよりも精神的な豊かさの方が大事だと思うようになった。
本書は、自分が体験を通じて感じていたこと、つまり「すべては空」「共時性」などを、量子論などを用いてわかりやすく説明しており、大変興味深かった。
「人はどうしたら苦しみから自由になれるのか」
本書は、そんな誰もがいだく迷いや苦しみを取り除いてくれる良著である。
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本書は、そんな誰もがいだく迷いや苦しみを取り除いてくれる良著である。
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