2011年12月28日水曜日

[書評]現代語訳 般若心経 玄侑 宗久 (著)



この数年間、数多くの書籍を読み、多少は学んできたつもりだが、知識が増えることが必ずしも「しあわせ」に繋がらないのではないかと感じ始めている。つまり、知れば知るほど、「これはこういうものだ」「こうじゃなきゃいけない」という概念に囚われてしまう。
般若心経は、こうした捏造された「私」から解放してくれる。
私自身、宗教心が強い人間ではないが、何気なく手に取った本書が、今年、一番影響を与えた書籍かもしれない。

■はじめに
デカルトの「近代的な自我」の提唱にあるように、人は生後成長と共に、自我の確立に向かうもので、社会は自立した個が連携して構成されるものであると、我々は信じこんできた。
しかしながら、本書では、こうした「個」の錯覚が元になった自己中心的な思考が「迷い」や「苦しみ」の根源であると述べている。

ソクラテスは、自己とは身体よりもむしろ霊魂であり、この霊魂をよい状態に保つことが「しあわせ」であると考えた。しかしながら、ソクラテスは、「しあわせ」に至る手法を確立することは出来なかった。

それに対し、世尊(ゴータマ・シッダールタ、後の「ブッタ」)は、理知的な分析の限界を認識し、瞑想という体験的な「知」の様式である「般若」を用いて、「しあわせ」の実感に近づいたという。


■「色、受、想、行、識」という五蘊は、すべて「空」である
五蘊とは、私たちの身心を構成する集まりで、具体的には、色:人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった、受:感受作用、想:表象作用、行:意志作用、識:認識作用 をいう。

我々は、五蘊を、自分自身だと錯覚しやすいが、世尊は、五蘊は皆実体がなく、関係性のなかで仮に現れた現象、すなわち「空」であると述べている。例えば、人間と、犬、蜂や鳩が同じ花瓶を見たとしても、それぞれが持つ感覚器や脳が違う以上、まったく違った見え方をする。

また、「不生不滅」「不垢不浄」「不増不減」、即ち、あらゆる現象は、本当は生まれもしなければ、滅することもない。汚れることもないし、浄らかになることもない、増えるとか減ったということも、錯覚でしかないという。

例えば、水が「減った」ときも、誰かがコップの水を飲んだなら、その人の胃を通り、腸で吸収されただけ。また、蒸発して「減った」のなら、水蒸気に形を変えたにすぎない。地球規模で見れば、何も減っていない。

以上のように、仏教においては、あらゆる現象は単独で自立した主体をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、かつ秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向へ変化しつつあるという見方をするのである。

■共時性

共時性、シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは、事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された概念である。共時性(きょうじせい)とも言う。

何か二つの事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような二つの事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見做す。


ちょっと難しいですが、「空」を実感するとき、「同時」なる関係性が感じられるだけでなく、「異時」さえ同じ地平に包み込まれてしまう。
つまり、誰でもあらゆる命が繋がっていると感じられたり、これまでの全ての時間が「今」に活きているというような、そんな実感をもったとき、人は人生全体に充実感をもったりするものである。

■名前が助ける知、曇らせる知
人は「名づけ」によってものごとを確定的に受けとめてしまう。
例えば、「花」という言葉は、そう呼ばれた途端に、「花」以外のものとの関係性が絶たれてしまう。また「花」は散りうるものなのに、言葉で示されると不変に存在しうるもののように感じられる。

また、お腹が「しくしく」痛むのは、単なる感覚だが、これが「病」というレッテルを貼られると、本来備わっている自然治癒力が著しく低下し、症状が悪化してしまう。

このように、あらゆるものに名前がつけられ、概念化し、思考が生まれる。名づけられた「モノたち」はやがて互いに対立する存在になりうる。こうして「全体性」が分断され、「空」から遠ざかってしまう。

言葉というものが、どのような状況で誰に向けられたものであるかを抜きに一般化されて伝えられるべきではないのである。


言語学では、言葉の発生について、以下の2種類の分析がある
1.コミュニケーションのために生まれた
2.すでに生まれてしまった概念整理のために生まれた


例えば、「過去、現在、未来」「右、左」といった複雑な概念も、言葉によってスムーズにコミュニケーションできる場合もある。
しかし、例えば、犬同士のコミュニケーションのように、言葉を必要としない場合も多いし、逆に、言葉によって誤解が生じる場合も多い。

■波動が、「いのち」に直接働きかける
仏教では、「般若波羅蜜多」「なんまいだぶつ」「なんみょうほうれんげきょう」などの意味を超えた音の響き、呪文が、大脳皮質を飛び越えて直接「いのち」に働きかける。こうした呪文を唱えつづけることで、空性なる「いのち」の真ん中にどーんと座っている自分を発見し、全体性の中にとけ込んでいくのを感じることができる。

■感想
私自身、大学に入った頃までに、メディアや両親、周囲の人たちによって価値観が作られ、「こうしなきゃいけない」「こうあるべきだ」という様々な固定観念に縛られ、捏造された「自分」によって、勝手に苦しみを感じていたように思う。
修行のつもりで、日本を飛び出し、東南アジア、南アジア、中東などの発展途上国を旅するうちに、こうした偏狭的な価値観を変えることができた。物質的な豊かさよりも精神的な豊かさの方が大事だと思うようになった。
本書は、自分が体験を通じて感じていたこと、つまり「すべては空」「共時性」などを、量子論などを用いてわかりやすく説明しており、大変興味深かった。
「人はどうしたら苦しみから自由になれるのか」
本書は、そんな誰もがいだく迷いや苦しみを取り除いてくれる良著である。

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2011年11月28日月曜日

[書評]座右の諭吉 才能より決断 齋藤 孝



どの国においても、お札には、国民的な英雄の肖像が記載される。
ネットで調べると、私が生まれた当初、1万円札には聖徳太子が採用されていたようだが、1984年からずっと福沢諭吉が採用され、長年目にしているはずだが、実は何をした人なのか、あまり知らない。
本書を読んで、彼の業績だけでなく、その人物像や人生訓も知る事ができ、日本の最高額のお札に記載されるにふさわしい人物であることが理解できた。

■目次
1 独立の章(精神はカラリとしたもの
喜怒色に顕わさず ほか)
2 修業の章(書生流の議論はしない
大事なのは「意味を解す」こと ほか)
3 出世の章(人生をデザインする
まず相場を知る ほか)
4 事業の章(なぜすぐにやらないのか
時節柄がエラかっただけ ほか)
5 処世の章(雑事を厭わず
大切なのは健康とお金 ほか)

■運動体の中心になる
福沢は、苦労人のようだ。九州の片田舎で、下級武士の末子として生まれ、幼くして父を亡くし養子に出されていた。しかし、学問に出会い、他に寄りかからない個としての人格を確立するため、一生涯にわたって学び続けた。自らが運動体の中心になって、アンテナを世界に伸ばし、新しい情報を取り入れ、日本の開国を支援した。

■活用なき学問は無学に等し
福沢は、机上の学問では意味がなく、どう活用するかを考えて学ぶ必要があると説いている。
これには共感する。本も読んだだけではすぐに忘れてしまう。本を読む事で、読んだ前と自分の行動が変わり、考え方が広がる。そうした本の読み方をしたいと思い、ブログを書くようにしている。

■人生をデザインする
彼は中津藩を脱出し、長崎、大阪、さらには江戸へと渡り歩いた。アメリカ、ヨーロッパにも渡り、変化を求めて脱出を繰り返している。
「川の流れに身をまかせ」るのではなく、自分の人生を自分で切り開いていく生き方に憧れてしまう。

■感想
福沢諭吉を知れば知るほど、大前研一氏に似ているなと感じる。
どちらも名著を残した作家、大学の創設者であり、マルチな経済人。
それらに加え、どちらも悩む事がなく、「精神がカラリと晴れた」、合理的な考えに徹した人物という点で共通しているように思う。

若い人たちは、スポーツ選手や歌手、俳優を憧れの対象としていることが多い。

しかし、時代が変化する時には、福沢諭吉や大前研一のように、旧態依然とした思想を突き壊し、学び続けていることこそがアイデンティティであるような啓蒙家が必要だと思う。
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2011年11月27日日曜日

[書評]プロフェッショナルを演じる仕事術 若林 計志 (著)



■目次
第1部 ストーリーが人を動かす(取調室でカツ丼を食べる謎
ストーリーはどこからやってくるか
プロフェッショナルのスゴさを「見える化」する
仕事をゲームに変える方法)
第2部 「プロフェッショナル」と「自分」をシンクロさせる(「負ける技術」を身につける
トイレを磨くと儲かるか
プロフェッショナルからの正しい学び方)


俳優が行う演技とは、一見無関係な他の職業においても、実は役にのめり込んで「演ずる」ということが求められている。
本書は、プロフェッショナルとして認められるビジネスマンにとって、周囲の期待に応えて、与えられた役割に没頭し、演じきることが大切だと述べている。

この「演技」と「プロフェッショナル」との関係を説明するために、
「スタンフォード監獄実験」、「プラシーボ効果」、「組織社会化」、「ピグマリオン効果」、「予定調和」などのキーワードを用いて、丁寧に説明しているので、思わず納得してしまう。

また、会社にとっても、従業員に役割を演じてもらうために、仕事の目的を明確にしたストーリーを与えることが必要だという。

■「負ける技術」を身につける
成長しつづけるためには、様々な事に挑戦し、多くの失敗を乗り越える必要がある。そのために、「負ける技術」を身につけ、失敗を真摯に受け止め、失敗から学んでいくことが大事だ。
本書の中で、特に興味深かったのが、コンプレックスについて。
ユング心理学では、コンプレックスとは、無意識の領域にあって、自我が意識することが出来ないという特徴を持っており、その中核となすのが、
「自我の許容量を超えていたがために、無意識の領域に抑圧された経験」
「個人的無意識の中に内在しているが、未だに意識化されていない内容」だそうだ。
以下は、コンプレックスから自我を防衛するための典型的な反応である。
①同一視
他者と自分を無意識のうちに混同することにより、安定しようとする働き。
有名人や学者などが同じ学校の出身だというのも、一つの同一視の反応かもしれない。

②投影
自分のもっといる性質を、他人の性質として捉えること。自分では意識していない欠点や不足、自分が密かに抱いている表面には出せない不都合な感情を、相手のものとして捉えること。
実は自分も相手と同じようなことをしていながら、それは置いといて、相手を責める。

③反動形成
反動形成とは、抑圧された欲求と反対のものが強調されて、態度や行動として出てくること。

相手を好きだけど、何らかの理由でそれが抑圧され、好きになってはならないという縛りがあり、そのために、意地悪な行動に出たり、普通じゃないほど過度の無関心を装ったりする。

詳細は、「やさしいユング心理学 第三章 コンプレックスとの対決」を 参照。

こうした行動は、自分も他人もしていることがある。
意識化することで、対応できそうだ。

■感想
著者は、Bond-BBT MBAプログラムの統括責任者であるだけあって、一冊にMBAのエッセンスの多くが凝縮されており、読み応えがある。ただし、とても分かりやすく説明しているので、新入社員にもお勧めしたい。

本書を読むと、会社や社会の中で自分はどんな役を演じたいかを考えさせられる。
演じたい役と、実際に求められている役が一致した人は、よいパフォーマンスができるだろう。

以前、映画ターザンを演じた役者が、その役のイメージがつきすぎて、それ以外のオファーが来なくなったと聞いたことがある。
専門性の高い職業を選んだあまり、その後、転職においても、結局、今までと関連する職業についてしまう状況に似ている。

変化の激しい世の中では、ある日突然、その職がなくなったり、海外にアウトソースされたりすることがあるかもしれない。
そのためにも、多くの役を演じれる役者になる方がよいのではないか?
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2011年11月10日木曜日

[書評]ウェブはバカと暇人のもの 中川淳一郎



梅田望夫氏は、著書『ウェブ進化論』の中で、ネットの世界を、テクノロジーがもたらす理想郷と捉え、頭の良いネットユーザーが集合知を利用して、様々なものを生み出していくweb2.0の可能性を高らかに宣言した。
(梅田氏の著書の書評はこちら→「ウェブ時代の5つの定理」)

一方、本書の著者中川淳一郎氏は、そうしたネットの可能性に期待しながらも、現実には、他人を平気で罵倒したり、他人の発言の揚げ足をとったりするネット世界に、嫌気がさし、気持ち悪さを感じていた。

本書は、こうしたネット世界の影の部分を描写し、ネットとの関わり方を考えさせられる。

■目次
第1章 ネットのヘビーユーザーは、やっぱり「暇人」(品行方正で怒りっぽいネット住民
ネット界のセレブ「オナホ王子」 ほか)
第2章 現場で学んだ「ネットユーザーとのつきあい方」(もしもナンシー関がブログをやっていたら…
「堂本剛にお詫びしてください」 ほか)
第3章 ネットで流行るのは結局「テレビネタ」(テレビの時代は本当に終わったのか?
ブログでもテレビネタは大人気 ほか)
第4章 企業はネットに期待しすぎるな(企業がネットでうまくやるための5箇条
ブロガーイベントに参加する人はロイヤルカスタマーか? ほか)
第5章 ネットはあなたの人生をなにも変えない

■品行方正で怒りっぽいネット住民
リアルの世界では、日本人の多くは、ものを強く主張したり、他人の行為を注意したりしない。しかしながら、著者は、ネットの世界だと、人を咎めたり悪口を書いたり罵声を浴びせたりする人ばかりだという。

特に、芸能人や有名人がうかつなことを発言してしまうと、「怒りの代理人」がネット上で何らかの正義感のもとに、罵詈雑言を書くという。

そして、著者は、「プロの物書きや企業にとって、ネットはもっとも発言に自由度がない場所である」と結論付けている。

■ネットで流行るのは結局「テレビネタ」
テレビは、Youtube等でアップされた番組をときどき見るくらいで、なんとなく、最近のテレビ局の低迷から、「テレビは終わった」のかと感じている。しかし、本書によれば、テレビはたしかにかつてほどの影響力はなくなったが、数千万人への人へアプローチでき、流行を生み出すことができる唯一のメディアであるという。そして、ネットとテレビは、非常に親和性が高く、ネットで検索されるキーワードや、ブログで話題にあがるネタも、「テレビネタ」が多いという。

■ネットでうまくやるための5か条
1.ネットとユーザーに対する性善説・幻想・過度な期待を捨てるべき
2.ネガティブな書き込みをスルーする耐性が必要
3.ネットではクリックされてナンボである。かたちだけ立派でも意味がない。そのために、企業にはB級なネタを発信する開き直りというか割り切りが必要
4.ネットでブランド構築はやりづらいことを理解する
5.ネットでブレイクできる商品はあくまでモノがよいものである。小手先のネットプロモーションで何とかしようとするのではなく、本来の企業活動を頑張るべき

■感想
私自身も『ウェブ進化論』等を読んだとき、個人が世界中の情報にアクセスし、自分自身の考えを大衆に向かって発言できるウェブの可能性に大いに期待した。そして、テレビをやめ、ネットでRSSやソーシャルブックマークを利用して、情報収集し、ブログ、SNSなど利用し、アウトプットするようにしてきた。
しかし、本書を読むと、ネットは、過度に期待するものでもないし、またSNS、ツイッター等で、どこまでプライベートをさらけ出すかについて、考えさせられる。できれば、リアルな世界で充実して生きるために、ネットを利用したいと思っている。

また、日本語圏と英語圏による情報格差が拡大していくのではないかと危惧してしまう。つまり、最近、米国トップ大学への日本人留学者数の減少が話題になっているが、これに加え、本書で指摘されたように、プロの物書きがネット上で発言を萎縮してしまうような状況が続けば、英語圏に比べ、日本語圏では、ウェブにおける知の供給者が相対的に低下していくかもしれない。

いずれにしろ、ネットも、テレビと同様に、誰もが(通信料を払えば)無料で利用できるので、ネットユーザーの多くを完全な「善」として捉えないようにしたうえで、ネットを利用したほうがよさそうだ。




2011年11月4日金曜日

[書評]誰も教えてくれない人を動かす文章術  齋藤 孝



仕事柄、技術文書を書くため、分かりやすく文章を書く方法を学んできた。有名どころだと、以下の2冊だ。
日本語の作文技術 (朝日文庫)
理科系の作文技術 (中公新書 (624))
これらの書籍は、読者に誤解を与えないように、内容を正確に記載するために大いに役立つ。

一方、本書は、こうした文章力ではなく、面白い内容を書くために、「独自の視点で物事を発見する力」と「文脈をつなげる力」を身につける方法を伝授している。齋藤孝氏の本は、好きでよく読んでいるが、本書も、新たな発見と文章を書きたいという意欲を与える作品だ。

■目次
プロローグ 人を動かす書く技術
第1章 「書く」ことで生活が劇的にチェンジする―エッセイからはじめる書く技術
第2章 まずゴールを決める―「書く」ことで世界観がガラリと変化する
第3章 ビジネスの文書力―稟議書・報告書・企画書・始末書・謝罪文の書き方
第4章 学生のための文章術―感想文・小論文・自己アピール文の書き方
第5章 メールは余力を残すな―おトク感を演出できる最高のツール
第6章 評価されるワンランク上の文章力―視点の身につけ方、読書力、文章の思考法

■エッセイへの段取り
(1)ネタ出し--面白いものを書き出す。会話をメモする。
(2)グループ分け--ネタを3つくらいのグループに分ける
(3)ゴールを決める--最後の文章を考える
(4)タイトルを決める--「つかみ」が大切
(5)通過地点を設定する

書く作業へ

文章を書く前に、「最後の文章を決める」という点が、書いている最中に方向性を見失わないために重要だそうだ。が、これがありきたりな結論や道徳的な結論(例:人に迷惑をかけるな)であってはいけないという。この結論の中に、ユニーク視点、新たな認識や発見があって、はじめて書くに値する文章になるということだ。そのために、イメージが離れたものを結びつけ、その結びつけ方に新たな意味を持たせればよいという(例:チームワークとあやとり感覚)。

次に、「タイトル」を決める工程だが、ここで、読者の関心を一気に惹きつけるようなタイトルの付け方が解説されている。
具体的には、「ゴールに対する疑問文の形にする」、「無関係に見える2つの事柄を持ってくる」という方法が示されている。
例として、「通勤地獄解消の決め手はあやとり感覚か」「論語と算盤」が挙げられている。

今まで、ゴールもわからず、文章を書いていたため、漠然とした内容になることが多くあったが、割りと上手く書けたときは、確かに最初に「ゴール」を決めて、一見無関係な事柄をつなげるように、謎解きをするように書いていたように思う。

以下、以前私が書いた「夜明けのレース」という文章を紹介する。
アフリカの寓話らしい。
~~~~~~~~~~~~~~
「夜明けのレース」
アフリカでは毎朝、ガゼルが目を覚ます。
ガゼルは知っている。
最も足の速いライオンよりも速く走らなければ、殺されてしまうことを。
毎朝、ライオンも目を覚ます。
ライオンは知っている。
最も足の遅いガゼルよりも速く走らなければ、飢え死にしてしまうことを。
あなたがライオンなのかガゼルなのかは問題ではない。
夜が明けたら、とにかく走ることだ。
~~~~~~~~~~~~~~~

人間も大昔は獣に追いかけられたり、獲物を探したりするために、森の中を走っていたんだろうな。

でも、世の中が便利になりすぎて人は、走り方を忘れてしまったように思う。
特に日本のように文明化された社会では、車やタクシー、公共機関に乗れば、走る必要もないのかもしれない。

レースといえば、
最近、大学入試中に、受験中の生徒しか知らないはずの試験問題がネット上の質問サイトへ投稿された事件がニュースで話題になった。試験終了後、大学が警察に被害届を提出したため、さらに報道がエスカレートし、結局、警察が通信履歴を調べ、一人の生徒を逮捕した。

この事件は、日本中の人々に注目されたが、そもそもネットで情報が簡単に探せる時代に記憶力だけを問う受験競争に意味があるのか。大学に入っても、職が保障されるわけでもないし、分からないことに出会ったとき、グーグルで検索すれば、過剰なまでに記憶する必要もないように思う。

それなら、いっそ、ガゼルやライオンのように、子供たちに走り方を教えたほうがよいのではないか。

走り方とは、寝る場所を確保して、食べるものを探して、生きていく力のことだ。
つまり、学校は、キャンプや山登り、海外をバックパック旅行するスキル等を教えるべきではないか。

夜が明けたら、走らねば・・・。


この文章では、アフリカで行われる生存競争のレースと、日本の受験レースという、一見無関係な事柄の中に、人間も動物と同様に「生きるための力」を身につけるべきだという共通点を見出し、これを結論した。私自身が、かつてキャンプや山登り、バックパック旅行をした経験があったので、この結論には、独自の視点に基づいた解釈が含まれていると思う。そして、その結論を導くため、いくつかの通過点を経過させて記載した。

本書のあとがきに、『文章力とは、この世を生きる力である』と述べられている。
自分自身が生き残るためだけではなく、他者と協調して生きる人間社会では、上述して「走り方」の他に、「人を動かす」ためのコミュニケーション力や文章力が必要なのかもしれない。

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